官営の愛知紡績所遺構

天野武弘


 官営の愛知紡績所遺構は、矢作川の支流乙川を国道一号線が渡る岡崎市大平町に位置しています。現在は、日本高分子渇ェ崎工場となっていますが、その一角に官営時代の紡績所の一部が残っており、全国でも屈指の産業遺産になっています。
 一八八一(明治一四)年一二月に操業を開始した官営愛知紡績所は、明治政府が設立した最初の綿糸紡績所でした。遅れていた洋式紡績業の奨励をはかるため、民間で設立される十基紡*1などの模範工場として建てられたものです。全国では愛知と広島の二カ所に建設されました。ところが広島紡績所は開業前に民間に払い下げられてしまいます。そのため、愛知紡績所は唯一の官営紡績工場として、紡績技術者の養成などで指導的役割を果たしていくことになります。
 さて、開業当時の官営愛知紡績所はどんな工場だったでしょうか。その様子を国立公文書館所蔵の「公文録」や「愛知紡績所沿革」よりみることにしましょう。
 同書の絵図には、旧東海道から一〇〇メートルほど入ったところに工場が位置し、乙川から工場に引かれた約一・八キロメートルの導水路と、再び乙川に流れる約〇・三キロメートルの吐水路が、乙川の右岸に沿って描かれています。この水路は、工場の動力として使われた三〇馬力のタービン水車を回すために開削されたものです。工場の敷地は二一五三坪で、南側の段丘になったところに水車場が設置されています。この水車場をもつ一八五坪の紡績機械工場がメイン工場で、イギリスより輸入した二千錘のミュール精紡機はじめ、洋式の紡績機械がところ狭しと並んでいたところです。このほかに、六一坪のかせ繰場、六〇坪の綿糸倉庫、二九坪の事務所などが描かれています。また開業直後の一八八二(明治一五)年には、男子二一人、女子五一人の従業員が記録されています。
愛知紡績所はその後、一八八六(明治一九)年に民間に払い下げられ、一八九六(明治二九)年に火災により工場建物の大半を失い消滅します。しかし幸いなことにこの地は、水路や石積みの水車場がほぼそのまま利用できたため、各種の工場が入れ替わり使用することになり、当時の姿を大きく変えることなく今日に至ってきました。
 愛知紡績所の産業遺産としての価値は、とくに初期綿糸紡績所における主要な施設であった動力水系をよく残しているという点です。ここでは、その主な遺構である水車場と取水口樋門について紹介します。
 水車場遺構は、工場跡地の約四メートルほどの段丘地に見ることができます。その一角に高さ四メートルほどの石造りの水槽壁面が立ち、下部に放水口が口を開けています。当時使われたタービン水車は、出力を出すためには五〜六メートルの落差が必要であり、そのために段丘の地形と水車を設置する井戸のように深い水槽が不可欠でした。また水槽のすぐ手前には、水車を使わない時や水量調整するときに水を流す余水路がつくられています。今は建物床下になっている余水路は、総石造りの階段状水路という特徴ある姿を見せており、水車水槽とともに官営時代の名残をとどめています。
また、取水口樋門は、同市丸山町の東名高速道路が乙川を渡る地点の、通称竜宮の淵と呼ばれる乙川右岸に構築されています。長さ約九メートルの取水口樋門は、暗渠部を花崗岩と煉瓦で積み上げ、その周囲を人造石で固めたものです。構築後一〇〇年余りを経たいまも工業用水の取水口として機能しています。
取水口から工場跡までの水路沿いは、愛知紡績所時代の遺構をいくつか発見できる散歩道にもなっています。


(注)*十基紡

  明治政府は紡績業の奨励策として、官営模範工場に次いで、輸入紡績機の年賦払い下げによる十カ所の民間紡績工場の設置を計画しました。これが十基紡といわれる紡績所で、明治十五年から十八年にかけ、玉島紡績所、三重紡績所(のちの東洋紡)、島田紡績所、下野紡績所などが開業しています。いずれも当時の綿作地帯で、水車がおもな動力源として使われました。


愛知県産業情報センター『あいち産業情報』「産業遺産を歩く 5」 1994年9月号(No.110)掲載(禁無断掲載)


Update:2008/10/24 0000

(中部産業遺産研究会会員)
1999
This site is maintained by Takehiro Amano.
http://www.tcp-ip.or.jp/~amano-ta/